羅針盤 no/4〜子どもの権利条約の実行者として
(子どもネットワーク可部 機関紙99号『羅針盤4』より)  

1月は『抱っこ法』講演会、2月は最後の『親子で遊ぼう』、3月は福尾野歩氏のコンサートに参加しました。

参加者が可部にとどまらず,会員にとどまらず、広がっているのを感じました。

インターネットという文明の利器が、私たちにすれば、同じ志を持った人、志とまで行かなくても、何か探している人、親としての自分、子育てをどうしたらいいのかと考えている人、戸惑っている人たちが遠くから集まってくるのを見て、インターネットの弊害ばかりを、(自殺志願者募集、殺人代行、匿名性の悪用で個人の罵詈雑言など)捉えるのではなく、生きた利用が実際にあるということが、うれしいことです。

かつては、知り合いに声かけすることのほかに手段を持たず、会場はいつかどこかで見かけた人々 ばかりなのが、電話での申し込みを受け、実際に会場受付で,「あー この方か・・・。」と思いながら、お見送りでは参加者の方が満たされた表情を見るという変化、それは子どもネットワーク可部の活動の変化と広がり、地域への認知度を実感するひと時でもあります。

 参加者は母親が多数派であった時代、もちろん今も多数派ですが、今は、将来福祉に関すること、子どもに関することを仕事に希望している学生や父親の参加が増えています。子育てに専念している母親は社会との接点がありません。語ろうにも語る相手がいないのです。そういうときに一緒に参加した夫や、参考のために参加した学生がそれぞれの社会に戻ったときそこで会話の一助にしてくれたら、子どもの権利条約の実行者としての第一歩だと思うのです。

 『そつ啄同時(そつたくどうじ) 』という禅語があります。卵の中の雛が成長し、殻を破ろうと中の雛がこつこつと殻をつつきだす〔そつ〕それを母鳥が外からつつく〔啄〕こと、雛がこつこつとつついていないうちに母鳥が外から殻をつつくと外の世界で生きていく力がないうちに放り出された雛は死んでしまう。母鳥はこの?啄を同時に行わないと雛は生まれてこない。雛は自分の誕生を母鳥が待っているからといってあせって出ることなく、自分に力がないから硬い殻で自分を守っているのだから、力が備わった時に雛は殻を破って出て来る。    この言葉に出会ったころ、私は学生で、漠然とした将来に対する不安を持っていたので、あせらなくていいんだよと励ましのエールを送ってもらったような、なんとなく 不安から解放されたのを覚えています。そして周りに対して、申し訳ない気持ちでいた私はいつか出て行くし、それをあせらせる周囲の人たちにこそ配慮が足りないと、自分を責める気持ちに幕を引けたこと、そのときの爽快感は、今も覚えています。長い間、この言葉を忘れていたのですが、このお話はいつも私を励ましてくれるものでした。

 母親になってから、再びこの言葉に出会いました。今の私は雛が卵の中で殻を突付く音に耳を澄ませている立場です。『見守る』『待つ』ということがこんなに苦しいこととは正直思っていなかったし・・・。

そういう時期に『抱っこ法』や『福尾野歩氏』に出会えたことは、私自身、山道を登っているときに、足元の花に出会ったような、小鳥のさえずりに空を見上げたような休息のひと時をもらったような時間と空間。

そして、私は何をあせっていたのだろう、何を心配していたのだろう、何を子どもに要求していたのだろうとわれに返りました。子どもに対しての私の原点は「私を母親にしてくれてありがとう。」ではないか・・・・・。的確な言葉がまだ見つからないのだけど、何か解放されました。そして、私自身を受け入れられたような感覚がありました。

★『おやこで遊ぼう』のボランテイアスタッフとして、最初は子どもに接するお母さん方の態度に私はびっくりしていましたが、この時代の人が受けてきた『マニュアル』教育を考えるとそれもやむなしと思い、少しずつではありますが、彼女たちを受け入れる気持ちも芽生えてきました。

でも、彼女たちは素直だけど、母親としては足りないものが多いと私は思っていますよ。だけども それを責める気にはなれません。今の社会のどこで子どもを見かけ、子どもの泣いたり笑ったりを見たりできるでしょう。

保育園なり幼稚園なりに入るまで、隣近所でも、子どもを見かけない社会で子どもを育てている彼女たちの孤立無援の心細さは誰かが声をかけていかないと、肝心の子どもによくない影響があると思います。そして、彼女たちが娘から母親へ育っていく過程を見るのも、私たち子どもネットワーク可部の喜びでもあります。

子どもが嫌がってワンワン泣いているのを怒りながら手を強く引っ張って参加させようとするお母さんがたが、だんだん「今日は遊びたくないみたいです。」と、子どもに無理強いしなくなり、「ちょっと、やってみようか。」と言葉がけをするようになり、自分の期待通りの反応が返ってこなくても怒らなくなり、むしろ、子どもの初めて見る反応に驚いたり、喜んだりしているのを見て、子どもが安心して動き回っているのを見て、ああ、居場所を見付けたねと感じること。

今年最後のボランテイアスタッフのとき、『ロケット発射』ワークでお母さん方が一緒にカウントダウンをしだしたことに私は、うれしいほうでびっくりしました。ゲームワークに子どもとともにお母さん方が参加できるようになれたってことがね。少なくとも私が最初に参加したころのお母さん方は子どもとともに遊ぶよりもランチの相談ばかりに花が咲いていたのですから・・。

このような日々の活動で得られる喜びの積み重ねがあるから、子どもネットワーク可部はがんばっています。おやこ劇場時代のように、年5回の舞台鑑賞はかなわなくなったけど、実際に人と触れ合う地道な活動のおかげで,達成感を味わう楽しみが増えました。生の舞台鑑賞も数をこなすと、劇に入り込めない自分がいて、ストーリー展開、場面展開に批評家としての見方になって、だんだん冷めていく自分がいたのも事実でした。

観客としての自分は卒業、つまり脱会を考える時期にNPO法人化への転換がありました。私は創業時期を知らない会員で,かつての時代のよさを懐かしむところがないので、この法人化への移行は抵抗がなく、むしろこのことが会員として継続するひとつのきっかけになりました。

あなたの経験を子どもネットワーク可部に加えていただきたいと思うのです。可部発で少子化担当大臣と文部科学大臣に子どもの権利条約の実行者として意見書が出せると思うのは我田引水でしょうか。